考える日々

a Contemplative days

抽象的な世界で

具体的な解決方法をしらみつぶしに試すより、
一つの本質的な解を見つけたほうが結果として早い。

自分は普段から「個」と「全」というイメージを抱いている。
抽象的な概念だが、実際それを意識することで視点が変わっていったように思う。

全ては繋がっていて、
分け隔てなく地続きである

誰でもそうだが、自分という存在は人間の生殖活動によって生まれた。
親という存在から生まれた以上、物理的に他者を媒介として生まれたということである。一方、精神的な面で考えてみても社会や教育から影響を受けて育まれた存在であることに変わりはない。つまりどのような場合であっても自分という存在を語る上で他者の存在は欠かせないということである。これは変えようがない事実であり、それを否定することは自分の存在を否定することにもなる。

与えて、同時に与えられている

自分の自由意志は全てと地続きの場合、どのように考えればいいのか?
ざっくり言うと「持ちつ持たれつ」だと言えるのではないか。


それぞれが主体的に自分の生きる道を進んでいるけども、それでも社会は調和を保っている。仮に社会的に悪だとか、倫理に反していることが起きていたとしても、それは全体調和の中の一つの要素に過ぎず、人間として本来持ち合わせている側面であるという事実。(もちろん世界で起きている悲惨な状況に対して何も感じないわけではない。むしろ密接に関わる問題である。)どんな形にせよ、自分の生き方が、関わる人々、社会に影響を与え、同時に与えられているという状況は変わらない。自分が知覚する範囲をどこまでにするのか、その設定をどういじるのかも本人の自由だし、その結果快適な暮らしや精神の安定が得られるならそれこそ全体にとっても個人にとっても善となりうるだろう。

抽象的な視点で世界を捉えてみる

具体的な解決策で対処療法的に軌道修正していくことは可能だが、ありとあらゆるパターンに一つずつ違った対応をしなければならない時点で効率は悪い。本質的な考え方、つまりはどんな場合であっても応用できる思考の枠組みを手にすることが生きやすくなる近道だと思っている。現実は具体的な問題がどうしたって目につくし、それを解決することが日々の責務のように思える。しかし、全てに通ずる共通の問題点を一つ見つけて対処するほうがよっぽど早く解決するし、今後似たようなケースが出てきても応用が利く。

経験の少なさをこうした概念を取り入れることで対処してきた。
全てに共通するものは何か?自分とは何か?
全体と繋がっていることを前提に考えることで見つけていけるような気がする。